ラカン Jacques-Marie-Émile Lacan
無意識は言語のように構造化されている
主体の経験の痕跡として無意識にとどまっているイメージもシニフィアン
他のシニフィアンとの対比によってのみ価値を持つ
{A,B,C,D}とあればAはBでもCでもDでもないもの
「空は青い」と言う場合ばず「空」は空、海、山、...の集合から選ばれる。「青い」も同様
が意味を生み出すにはどこかで交わらなくてはならない
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水平に流れる線はシニフィアンの流れを表すもの、そして、もう一本の線はシニフィエが生まれるために必要な線である。右下の三角形の印は、意味しようとする意図を表す。われわれが何かを言おうとするときにはシニフィアンを使って表現するほかない。この表現意図が最初にシニフィアンの線と交わるところはシニフィアンの貯蔵庫を表す。ラカンはシニフィアンの宝庫と呼び、共時的な言語の場で他者(A)の場である。Aにおいてシニフィアンの選別が行なわれ、文章が始まる。次にこの線は下降し、もう一度、シニフィアンの線と交わる。これは、文章が終わり、句読点が打たれる場、メッセージが成立する場で、意味が生じるシニフィエの場である。
一つの文を構成しようとするとき、まず初めに一言発せられるが、そのときにはまだ実際に、どのようなフレーズになるかは未定である。そこでは最終的な意味を予知しているにすぎない。そして、最後の単語が終わるときに初めて、最初に発せられた言葉の意味が確定する。これは句読点の遡及的効果である。一つのパロールが始まるとき、その意味はまだ固定しておらず、単にそれを予知しているだけなのだ。また一旦始まったフレーズを予知通りに終えるのは大変困難である。公衆を前にして話したことのある方は、この経験をお持ちであろう。言葉が予期した方向に進まず、最初の意図とは違ったことを言ってしまうこともしばしばある。この予知─遡及効果の間で、無意識の形成物の一つ、言い間違いが起こる。
欲望
動物には本能があるが人間にはない
本能とは個体を保つこと種の保存を保証すること、...
人間においてはそれらは快楽の追求であって本来の意味合いは二次的なもの
だから人間においては本能は行動のための原則として成り立たない
何を元に行動するのか=欲望
欲望は本能的なものでも生来的なものでもない
欲望は言語に根ざした学習の産物
欲求は満足することが出来るが、欲望は満足しない
欲望は他人の欲望である
他者=言語
自分の欲望に「自分だけの理由」をつけることは不可能
フロイトは欲望の価値判断に性を採用
子と母が一体化
そこに父が現れ割り込む
このことを去勢という
それが言語獲得の契機
言語の学ぶ=他人との同一化
象徴界の作用は人間生活の全般影響を及ぼすがそれは認識されないことの方が多い
「無意識は言語として構造化されている」
イメージを通じた結びつき
★音が似かよっているための結びつき
ど忘れや言い間違いに多く言及
音に意味を従わせることの快感
言語は意味ではなく構造に従っている
意味や目的からは異なった論理形式でタブーが存在する
分節機能
机と、机の上の本を区別して認識すること
PC本体とディスプレイを区別すること
できない人いる
分節機能の逆利用
化け物の創造
巨大にしてみる
なにかを欠落させる
身体パーツを増殖させる
イメージ=実在物という錯覚
言葉で語ること=虚構化
母の不在をママという虚構で埋め合わせる
存在->言葉
象徴界の獲得
このときから、存在そのものには関わることなく言語(かイメージ)を通してしか関われなくなる
ものの殺害
なぜ鏡の像を自分と思えるのか
母=他人の存在
まだ身体感覚は統合されていないがイメージだけは先取りしている
同一化が進むにつれ支配権を争うようになる
自分を認識するのに鏡は必要だが鏡のイメージは決して自分ではない
言葉だけの世界、つまり「象徴界」のメカニズムを、僕たちはじかに知ることができない。だからそれは、「無意識」と呼ばれたりもする。
そして、無意識の中での言葉同士の関係が、人間の欲望を生み出したり、あるいは病気の症状をもたらしたりしているのだ。精神分析というのは、こうした、じかには知ることができない無意識のメカニズムを理解するための技術として発見されたわけだね。
金
「常に不足している」ため「誰もが欲しがる」ために過ぎない
「そこに存在しない」ときほどリアル
おとぎ話における永遠の幸福
女は存在しない
女は男でないものでしかない
近代のセクシャリティの象徴として
哲学の体系の一部として